白子を中心に三重県鈴鹿市一帯には昔から、「小原木」と呼ばれる菓子が伝わっている。
楕円形に焼いた薄い小麦粉の生地に粒餡を乗せ、真ん中でふたつに折った半月形のお菓子は、鈴鹿にお住まいの方なら一度は目にしたことがあるのではないだろうか。
今では鈴鹿銘菓となっているこの菓子だが、実は元祖ともいうべき店が、大徳屋長久である。
白子の宿場もそろそろ終る辺り、伊勢街道に面して店を構える大徳屋長久(屋号)の竹口家は、元々、白子の廻船問屋という家柄だった。出入りする廻船のために朱印を押したり、取締を行う役目を担っていた。いわば、海運会社のような存在であった。
当時の白子は、紀州徳川家の領地になっており、宿場町の北側には、紀州様の御浜御殿もあった。紀州藩御用商人として特に目をかけられ、苗字帯刀を許されていた竹口家は、紀州様が京都などに上る際には、しばしお供を仰せつかった。
そして紀州候の供として上洛に同行したことがきっかけとなって生れた菓子が「小原木」である。
古文書によると、京都の八瀬小原に出かけた紀州侯は、八瀬小原を訪れた記念に菓子を作るよう、傍らにいた竹口久兵衛に命じた。
八瀬小原といえば、手甲・脚絆をはめ白足袋をはき、紺衣を着て薪や柴を頭に乗せて売り歩く女性「小原女」の姿が昔から知られている。
久兵衛は、その小原女の頭に乗せた柴と、白子の子安観音をイメージした菓子を作り上げた。
「小原木」の「木」は、子安観音寺にある天然記念物の不断桜の「木」から取ってつけられた名前である。
小原木の餡は、北海道大納言小豆と水飴を練り合わせた艶やかでしっとりとした粒餡。
そして、昔ながらの菓子らしく、しっかりと甘い。今時のことなので甘さ控え目にした方がいいのかもしれないが、基本的な作り方や配合は昔とほぼ変わらない。300年間同じ味を守り続けている。
久兵衛が菓子作りを始めたのが享保年間(1716~1735)であったことが判明しているため、大徳屋長久では久兵衛を菓子屋初代とし、その創業年を享保元年(1716)としている。
「長久」は、久兵衛から1字をとり、「長く、久しく愛されるよう」との思いを込めて屋号に付け加えられた。
ちなみに、この頃の紀州藩主はというと、六代の徳川宗直であった。
以来、紀州藩御用達の菓子司として明治に到るまで藩に菓子を献上してきた。
明治以降は一般にも菓子を売るようになり、また、戦時中には軍への支給用に菓子を作っていた時期もあった。
昭和26年には天皇に菓子を献上している。久兵衛の名は代々継承され、現当主で十五代目となる。
十五代目久兵衛は、製菓学校を卒業した後、東京は新橋の老舗和菓子屋にて修行。
その後、大徳屋長久に入り、31歳の時に「久兵衛」を襲名した。
次期当主となる十六代目は、製菓学校を卒業後、大阪の人気和菓子屋で修業。
現在は大徳屋長久のほぼ全ての菓子作りを担当し、伝統を大切にしながら新商品の開発にも取り組んでいる。
有限会社 小原木本舗 大徳屋長久 当主